神武天皇の東征。神武は瀬戸内、近畿へと東征しなかった。近畿にヤマト王朝の元をつくったわけではない。 

古事記、日本書紀は、「多次元同時存在の法則」と言う法則があり、その法則により書かれているらしい。

その法則は、次の通りである。

・神の世界故、時間と空間を超越する。
・神は分身を造ることができる。
・その分身は別名として表現される。
・同じ名前の神(同じ「読み」を含む神)は、同一神である。


これでは、歴史と考古学が成立しない。

たとえば、神武天皇、ヤマトタケル、には東征のはなしがある。

神武天皇、ヤマトタケルの、東征とは近畿で展開されるはなしである。ヤマトタケルは東海、関東へも出現する。



しかし、地元の神社の記録、伝承によれば、神武天皇は瀬戸内、近畿へは東征していない。

神武天皇は、九州の火の国から豊国の天の香具山へと東征し、ニギハヤヒの倭の奴(ぬ)国を制覇して、天の香具山のふもとの橿原の宮に於いて、邪馬臺國(やまと国、通称やまたいこく邪馬台国)朝廷として即位。



九州の日向を出発して、神武天皇は近畿にいたり最後は熊野、吉野を通って奈良の天の香具山に至り、そこ奈良の橿原の宮で大和王朝の初代天皇として即位し、大和=日本を建国した、ーーー わけではない。

神武天皇の東征と大和王朝創始のはなしは、九州豊国の天の香具山への東征、ニギハヤヒの倭の奴(ぬ)国を制覇して、天の香具山のふもとの橿原の宮に於いて、邪馬臺國を創始した故事を、

後代に、近畿に移植して、近畿大和政権を正統の歴史とする、偽の歴史書、古事記、日本書紀を、作り上げた。



九州豊国の、神武天皇と邪馬臺國、は 捻じ曲げられ、隠蔽され、破棄され、抹殺されてきた、のである。

この国の歴史は、その建国から、捻じ曲げ、隠蔽、破棄、抹殺という、大スキャンダルで始まっている。



神武から卑弥呼、臺與(トヨ)の代ののち、天皇ヤマトタケルは邪馬臺國への侵攻者、景行の軍と戦って、天の香具山あたりでヤマトタケルが景行軍を迎え撃つ 邪馬臺國防衛戦。
「草なぎのツルギを以て、・・衣服岐能山(いふきのやま)の神を取りに」

古事記ではヤマトタケルの歌となっているが、ヤマトタケルは近畿の伊吹山にのぼったわけではない。ヤマトタケルは近畿へ東征などしていない。




ーーーー さて、通説の神武天皇の東征を思い出してみると、・・・・・

豊国の宇沙(大分県宇佐市)を経て筑紫へ。それから瀬戸内海沿いに東上して、安芸の国(広島県辺り)と吉備(岡山県)、浪速(なみはや=難波)と進み、河内国(大阪府)の青雲の白肩津(しらかたつ)という川原に停泊した。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81 より引用

神武天皇の東征 日本書紀

『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。

菟田(うだ)より先は八十梟帥(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)に阻まれた。そこでカムヤマトイワレビコは椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)を老父(おきな)と老嫗(おみな)に変装させ天香山(あまのかぐやま)の巓(いただき)の土(はにつち)を取りに行かせた。この土をもって八十平瓮(やそひらか)・天手抉八十枚(あめのたくじりやそち)・厳瓮(いつへ)を造り、丹生(にふ)の川上(かわかみ)にて天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭(いわいまつ)り、カムヤマトイワレビコは神の加護をうけ、八十梟帥(ヤソタケル)を撃ち破り斬ることができた。

ナガスネヒコとの戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦闘不能になった。

ナガスネヒコはカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。カムヤマトイワレビコとナガスネヒコは共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。しかし、ナガスネヒコはそれでも戦いを止めなかったので、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺してカムヤマトイワレビコに帰順した。



神武天皇の東征 古事記

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

浪速国の白肩津[1]に停泊すると、ナガスネヒコ(ナガスネヒコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。タカクラジからカムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢にアマテラスと高木神(タカミムスビ)が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定に使った太刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして運んだという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。

宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるか尋ねさせたが、兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまった。

エウカシはカムヤマトイワレビコを迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告した。そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシに遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。

忍坂の地では、土雲の八十建[2]が待ち構えていた。そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちを服従させ、カムヤマトイワレビコは畝火の白檮原宮[3]で神武天皇として即位した。

その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。


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さて、古田武彦の九州王朝論をはるかに徹底して超えてしまった、記紀と万葉倭歌と中国歴史書と神社伝承記録のフィールドワークの鬼、福永晋三氏の神武天皇の倭国邪馬臺國のはなし、日本古代史の読み起こしの成果によると、ーーーー



■神武天皇が、九州豊国に邪馬臺國(やまと国)を創始するまで


鞍手郡誌(射手引神社社伝)に、神武・東征コース が詳しく書かれている。

・香春岳一の岳 畝傍山の東南に橿原の宮 神武天皇の皇居

・香春岳一の岳 畝傍山の東北に眠る おほきんさん 神武天皇の墳墓


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現・田川郡香春町に鎮座する香春岳(倭三山)
天香山(香春岳三の岳)畝傍山(香春岳一の岳)



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おほきんさん 神武天皇の墳墓




●神武の第一次東征

神武は父のフキアエズとともに、火の国(のち肥前)吉野ヶ里付近おさかの大室屋を攻め落とし、後に神武軍は、筑紫から、遠賀湾のニギハヤヒ饒速日尊の奴国を攻めるが、香春岳の攻防で敗戦。

神武軍は現・大濠公園の草香江に撤退し、戦の傷で死去した兄五瀬命(イツセ)をかまど山(宝満山)に葬り、竈(かまど)神社にて三年、兵力を立て直した。




●神武の第ニ次東征


うさつひこ うさつひめ が妻垣神社で神武を迎える 
うさかかわかみ

妻垣神社
http://www.tumagakijinjya.com/
大分県宇佐市安心院町妻垣203番地


神武の第ニ次東征。妻垣神社[都麻垣宮旧事記]に神武の第ニ次東征のことが記されている。

神武は太陽を背にするコースを得るために関門海峡から宇佐方面へ迂回し、神武は安心院のスサノオ故事に則って妻垣神社に来て、今度は太陽を背に香春岳めざして第二次東征を出発した。彦山・高良山を拠点にしていたカラス天狗族(ヤタガラス)を味方につけ道案内を得た。


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カラス天狗族(ヤタガラス)

求菩提山八天像(豊前坊とヤタガラス)  インド・アーリア系 農業鉱業金銅鉄のテクノクラート




神武は、皇子手研耳命(タギシミミノミコト)をともなって、吉野のクズ(玖珠)族を味方にいれ、ヤタガラスの案内で彦山をくだり、香春岳の攻略にかかる。
赤銅のヤソタケル(八十梟師)を国見丘で倒し、「熊野の神邑」で磯城彦を倒す。

神武は、香春岳における長髄彦(ナガスネヒコ)=天忍人命 との戦いに決着をつけ、

●饒速日尊ニギハヤヒの倭の奴国(ぬ国)を制覇 




・立岩神社  神武が、饒速日命の天孫降臨モニュメントの岩帆を割る


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立岩神社証言 饒速日命のモニュメント岩帆を割る



・立岩遺跡(岩屋戸近く)の物証  甕棺の中に、饒速日尊による速須佐の男の命征伐を手助けした手刀男命の子孫 にして処刑された磯城彦の先祖 と思われるの人物の人骨。 紀元前の前漢式の鏡が出土。


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立岩遺跡(岩屋戸近く)の物証 甕棺の中



●[求菩提山(クボテサン)縁起] 神武は 奴(いぬ)の邪心をはらい九州をおさめたまふ




■神武天皇 121年、現・福岡県田川郡香春町の香春岳のふもと橿原の宮に於いて、邪馬臺國(やまと国)朝廷として即位 


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神武天皇 邪馬臺國を建国




・(倭王天忍人命のとき)107年 後漢の安帝に生口(食肉用の奴隷)一六O人を献ず。

倭の男王が死去して70~80年後に、倭王に女子を共立した。

(200年) 卑弥呼即位。倭国大乱ののち女子共立して邪馬台(やまと)国の王として即位した。宗女にして跡を13歳で継いだ壹與(トヨ)。

・238年 卑弥呼が魏に使いを出した。


107年と238年のあいだにある辛酉の年は、121年である


121年 「辛酉年の春正月の夷辰朔に、天皇、橿原の宮に於いて帝位に即きたまふ。」
邪馬臺(やまと)國を建国




●男王(神武)から70~80年ののち、(200年に)、豊国邪馬臺國(やまと国)の王へと共立された卑弥呼と、継ぎとなった卑弥呼の娘、壹與(トヨ)。この時代、倭国大乱は収まりしばらく安穏が訪れた。。



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引用ならびに画像の出典:

『神武東征と魏志倭人伝』 福永晋三先生 2015年川崎町講演会
  https://youtu.be/FYEw0dboxBc



神武東征と魏志倭人伝
1:44:54
Y T

https://youtu.be/FYEw0dboxBc


2015/10/13 に公開

福永晋三先生2015年川崎町講演会録
前方後円墳の起源は豊の国にあり。
神武東征の舞台は筑豊にあり。



== FIN ==



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