山口県田布施町の大室家。大室寅之祐=東京明治天皇は南朝系の光良親王の末裔なのか? 

落合莞爾氏が明治天皇に関して「堀川政略」で説くように、

大室寅之祐=東京明治天皇は、光良親王(護良親王)から23代も続く南朝の血を継承しているのだろうか。


落合莞爾氏「堀川政略」とは

・幕末維新期の孝明天皇は偽装崩御して裏天皇となった。

・「孝明天皇・睦仁親王暗殺説」は実はカモフラージュであり、殺されたと見せかけてそのまま堀川御所に入りウラ天皇となったのです。

・南朝大塔宮護良親王の末裔の中から秘かに選ばれた幕末長州の「寄兵隊(力士隊)天皇」こと大室寅之祐が、孝明天皇の皇位を継承した睦仁親王に成り代わって明治天皇になった。

・このような天皇のすり替えは、南北朝時代から行われていた。光厳上皇の皇子とされてきた崇光天皇が、実は護良親王の王子であったのです。



(以下の記事を抜粋転載はじめ)


Report of the Underground History
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4-1.html
20-1.大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について
(2002.5.7)




橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父大室庄吉の兄大室寅之祐(東京明治天皇)の秘密についてお話します。(こっそり)



◆山口県田布施町の大室さん


そもそも、田布施町のタブー(この事)については、(大室寅之祐について)田布施の古い人間なら500%知っている事実で、佐藤、岸すら知っていたが、「うち」の爺さんが「大室家が南朝の末裔で500年以上続いて、しかも寅之祐が大室家23代目なんて嘘だ!」と言ってた。


始め意味が分からなかったが本質は 1.寅之祐が本当に南朝光良親王から23代も続いているのか? 2.本当に寅之祐の親は大室弥兵衛なのか? と言う事であった。

その後、大室家(後大室家)は1794年から始まり、頼山陽によって、大室家の家系図が整備された。


文政時代に初代大室家当主が死去。だから、大室寅之祐の代で、後大室家5代目に当たる。


さて、大室寅之祐が作蔵の息子で行方知らずになる1866年8月頃迄戸籍名大室寅吉(通名(普段使う名前)は大室虎吉)(とらきち)である事も判った。芸者連れて1867年12月、田布施に帰ってきて「虎吉改め、寅之祐が・・・」となる訳である。


(そう書かれた木簡が出てきた。)(「K」先生の本より)



大室近祐がワカルといってもせいぜい1866~1867年頃迄であろう。だから大室家が光良親王(1400~)から23代500年も継続してる。とは嘘である。(500年以上も前の話等分かる訳無い)



これを踏まえて本当の所は、苗字も無い作蔵と興正寺基子(SUEKO)=スヘ(1831年5月1日~1855年11月20日)が結婚した年は1846年5月頃でスヘ15歳の時である。

だから1845年頃迄には興正寺昭顥(照景?)とスヘが田布施麻郷西円寺に京都浄土真宗興正派、興正寺から来てないといけない。(スヘは興正派門徒の娘)

作蔵(1824年?~1887年5月頃?)と結婚し、1年後、スヘ16歳の5月頃、長女(1847年4月14日生まれ)を出産した。

1850年1月10日(戸籍では庄吉の誕生日になっている)に寅吉(普段使う通名は虎吉,後の大室寅之祐)を出産。

この頃(1849年頃)作蔵が西円寺の東隣の麻郷「G」に家を建てる。だから「G」の地名を苗字にした。(「G」とはそもそも村の中心地と言う意味)


yahoo!地図 田布施町麻郷
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.55.47.426&el=132.3.10.064&sc=4&la=0&CE.x=128&CE.y=304


1852年12月(戸籍では寅助の誕生日になっている)庄吉(通名は省吉)出産。1854年2月29日に三男X平出産。(俺の高祖父)


>>その後、1854年初頭(5月頃?)に作蔵とスヘが離婚。

長男寅吉、次男庄吉をスヘが引き取り、多分西円寺の実家?へ戻る。 大谷(興正寺)昭顥(照景?)の家か?? (京都には帰ってないであろう)



1854年下旬(10月?)独身の大室弥兵衛30とスヘ結婚。

大室寅吉、大室庄吉となる。1年後、大室弥兵衛とスへ(24)の間に大室寅助(1855年11月頃~1857年6月22日)が生まれたが直後、スヘが産後のひだち悪く肺結核で死亡。(西円寺池で入水自殺か? 大室近祐説?)


その後、大室弥兵衛と文右衛門の娘ハナ(1815年12月5日生まれ 当時40歳?)が再婚したが寅助の方は2歳弱で病死。文政時代に初代大室家当主が死去してから5代目と思われる大室寅助死去により大室家断絶。


そこから先は、新国民社刊『裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の真実』に書いてある通りなので省略。1866年6月~8月には既に大室寅吉(寅之祐)は行方知らずとなったのであろう。(麻郷村の人間が手分けして探した)


大室寅之祐の子が昭和天皇であっても大正天皇の父は多分、田中光顕であろう。(大室近祐による。高松宮発言:昭和58年)




◆行方知らずになってから(1866年8月以後の大室寅吉)


 情報 1.


京都の上賀茂神社って知ってるでしょ。毎年9月9日に烏祭(からすまつり)ってのがあるんだけれどさ、このお祭りで奉納相撲が行われるんだけれど、この奉納相撲の記録ってのが残っているんだ。(記録って言っても寛政4年以前は残っていない)


この記録には慶応2年(1866年)の奉納相撲の出場者の中に「村岡権七、名和小一郎、天野才五、西沢半次・・・・」って続くんだけど、その中に、「大室寅介」という名前があったぞい!


まさか「大室寅之祐」の事かいな?どうなんでしょ?


 情報 2.


新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があったのは慶応3年10月29日。沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助の名前があった。


下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(中略)等、同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月)先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(『慶応洛中日記』・『会藩新兵余話』・『新撰組遺事』等)とある。


その後、大室寅吉(寅之祐)は新撰組に斬り殺された、と言う事になっていと。



 こんなのあったよ!

http://www.linkclub.or.jp/~rkamei/bakumatsu/bakumatsu.html (リンク切れ)



大室寅之祐の母スヘの実家が興正寺だとしたら何か関連があるのかもしれない。(母の実家、興正寺を革命のアジトにしてたのかも知れないし、麻郷に徳川の柳生の忍者跡があった様に、佐幕派が不良力士達を監視する為の施設が京都興正寺周辺にあったのかも知れない。

こう考えると正しく明治維新は革命だったと思えてくる。この辺を調べない事には幕末の歴史、動きが分からなくなってしまう)


 不動堂


木津屋橋は堀川に架かった橋で七条通りの二筋南。この橋の東西の通りを木津屋橋通りと言う。油小路は南北の通りで、この付近は現在の堀川通りの一筋東。木津屋橋通り油小路の南に不動堂がある。現在の不動堂は油小路塩小路の南の小堂になっているが、旧幕時代は境内の敷地も広く、有名な不動堂であった。


慶応元年(1865年)9月末、この不動堂村に新選組は京都の最後の屯所を置いた。推定 3,700坪と言う大名屋敷並の豪華な新築で、幹部は個室を持ち、30人程も入れる大浴場もあったと言う。


 木津屋橋油小路


不動堂村屯所の筋向かいの興正寺の下屋敷に近藤勇は妾を置いていた。此処に慶応3年(1867年)3月に新選組から離れた伊東甲子太郎を近藤が招く。計画された暗殺である。同年11月18日、近藤勇、土方歳三、山崎烝、原田左之助らが集まり、酒宴となる。帰り道伊東が木津屋橋通りを東に謡曲を歌っていた所を、大石鉄次郎が槍で伊東の喉を刺した。伊東は刺されながらも刀を振るい男を切り伏せる。

しかし、深手を負い、東の本光寺門前で倒れ絶命した。伊東の死骸は七条油小路の辻に引きずられ置き捨てられる。これを引き取ろうとして駆けつけた御陵衛士7人もまた新選組隊士40人に囲まれ斬り合いになる。藤堂平助ら3人が斬殺される。

藤堂は新選組の前身、試衛館からの同志であったが、伊東について隊を離れた人物。この殉難を恨んだ衛士側は、12月18日、伏見街道の墨染で鉄砲を用いて近藤に重傷を負わせた。


 情報 3.


山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事になるが。


西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。


>>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。


万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号である「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めていた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。


そして、大室寅吉(通名虎吉)は1867年12月田布施に帰ってくるのである。それが「大室虎吉改め大室寅之祐が芸者連れて田布施に帰ってきて・・」と書かれた例の木簡が出てきた話に通じる。

大室寅介、大室虎助、大室寅助、、、と名前を巧みに変えたのは伊藤博文が林宇一や林利助や俊輔の様に名前を変えて変名を用いたのと同じ事。


通史にある王政復古の大号令(1867年12月9日)とはもちろん京都での話ではない。田布施町の麻郷の高松八幡宮の話で今でも三条実美の七公卿が滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。


その後、寅之祐は再度上京。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いで勝利。1月8日慶喜が大阪城を明渡す。慶応4年1月15日からの明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏『明治天皇』上巻に詳しい。




◆その他 興正寺基子(SUEKO)=スヘの家柄に関する情報


興正寺(本願寺興正寺派)は浄土真宗では東西本願寺に次ぐ大宗派。


部落問題は天皇制よりも東西本願寺の存在が遙かに大きいよ。西本願寺派の解放同盟との癒着とかさ。


確か、スヘは浄土真宗西本願寺派の興正寺の門徒の娘だが、それと、明治以来の童話問題とリンクはするの??



Q.スヘの父、大谷(興正寺)昭顥←この人はやはり高松松平家の血統ですか??


A.(徳川家康→水戸頼房→高松松平頼重→女子(興正寺由常室)・・・興正寺昭顥ースヘ)



Q.と言う事は今の天皇家は浄土真宗興正寺派(西本願寺)の血統ですか??


A.と言う事になりますな。結論から言えば。



Q.そう言えば昭和天皇の母方の九条家も確か大谷家の血縁でしたっけ??


A.そうです。



Q.大谷(興正寺)昭顥←この人がスヘを連れて田布施の西円寺に来て親子で住み着いたという説は?


A.正式には同じ浄土真宗本願寺派の西円寺に赴任した。



Q.高松松平頼修と言う人はいませんが頼寿(貴族院議長)の間違いですか??


A.間違いではありません。



 (続き)


Q.僕は愛子の実の母は橋本厚子説を取るがどうして先生は橋本和子と言えるのかその根拠を教えて頂きたい。


A.極めて信頼の置ける医療関係者筋から「愛子内親王の実母は●●●和子氏」との情報が多数(100件以上)寄せられております。



さて、では逆に質問。愛子内親王の実母=橋本厚子説の根拠をお願いします。



Q.元々、大室家と高松松平の繋がりは何処から(何時から)来てるんだろう?


A.これは高松松平頼修公の出自と関係しますが、頼修公の祖先は高松頼常公(光圀の唯一の子)であり、公式には二人の男子がありましたが、どちらも夭折しています。(恐らく謀殺)



これは水戸家の家督争いが関係しているますが、高松頼常公には死後に生まれた男子は長州藩に匿われ、育てられたためです。なお万千代君の母親が長州藩の出身です。


 (興正寺家)


毛利元就 ─ 女 ─ 宍戸元秀 ─ 女(小早川秀秋正室・後に興正寺准玄室)─ 准秀昭超・・・・・・スヘ


新撰組の屯所は、西本願寺内に置かれたが、これも西本願寺が、「勤王方」と見られていた事に対する嫌がらせと見張りや牽制の意味が有ったのだろう。


幕末の動乱期、慶応3年既に徳川慶喜が大政奉還を表明しているにも関わらず、幕府に対して、「家康公以来の恩義を受けて、今日あるので末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕軍の指揮下に入りたい」等の申し出を行っている。

が、慶応4年の戊辰戦争の勃発で時代の潮流を感じたのか突如、厳如は妻和子の兄に当たる勤皇派の山階宮晃親王を介して「徳川家の義は軽く、天恩の義は重く門末挙げて、勤皇に尽くす」と言う一札を朝廷に差し出し、以後態度を急変、御所の警護や討幕運動の資金調達に全国を走り回ったのだった。


佐幕から、勤王へ路線を変更する事で教団の組織維持を図った訳だがこの事は明治天皇のおかあちゃんが興正寺基子(スヘ)で浄土真宗東西本願寺に影響があった人だが、何か路線の変更にその繋がりから影響が有ったのだろうか??


これでやっと謎が解けたね。


前に寅之祐は西円寺で生まれたとか言ってたよね。しかし、何故、作蔵の家では無くて、西円寺なのか疑問だった。昔はお産の場所に寺等を借りる事も有ったのかと思ったがそう言う事は無かったらしいし。

つまり、西円寺は作蔵妻スヘの実家だった訳だ。実家で出産するのは当たり前だもんね。
一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てた。そこで西円寺の寺娘のスヘと知り合い、恋愛して結婚した。そして、生まれたのが寅之祐、庄吉、X平だった。スヘの父親は大谷家の血筋で、何かの理由で西円寺へ下向した。こう言う経過なんだね。




◆作蔵について(人生何があるか分からない)


作蔵は22の年の21の時、スヘ(何と15歳)と結婚。寅吉(後の大室寅之祐)はスヘ18歳、作蔵25歳の時の子。だから作蔵とスヘが夫婦仲悪かったから結果的に離婚出来、30歳の独身、大室弥兵衛(作蔵と同じ年であろう)と再婚出来、寅吉が大室家の南朝神話を利用して京都明治天皇とすり替わって東京明治天皇になる事が出来た。


孝明天皇と中山慶子の間の本当の明治天皇は流産した。だから京都明治天皇もすり替えでしかも虚弱体質で岩倉が使った医師によって毒殺された。


一方、スヘも弥兵衛との間に一子儲けた。(スヘ24歳の時)これが本当の大室寅助だが虚弱体質で1歳数ヶ月で早死。それより少し前、スヘも病死。この時、寅之祐は5~6歳だった。後世、明治天皇の女癖が悪かったのは母親の早死による女性の愛情不足からだろう。40歳と言う異例の高齢オンナフミウエモンの娘ハナと大室弥兵衛が再婚したから寅之祐はこの継母(ままはは)に育てられた。


さて、作蔵の職業を祖父から聞いたのだが、作蔵はパワフルで海の男みたい。廻船業で明治20年、死ぬ迄その職で有ったらしいのだが、多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥(上手く日本語で説明出来なくてスマソ)を田布施町から愛媛迄運んで(時には大坂湾迄運んだ)利益を得る廻船業者と言う仕事で営んでいたみたい。1849年頃? その利益で既に25歳と言う若さで西円寺の東隣斜め上チョイの所に家をぶっ建てた。


当然、刺青していて、体格は明治天皇よりごつくて光格天皇の様に背も高かった。1849年以前は違う所に住んでいたみたい。だから1849年以前の我が家の足取りは不明。(何処の寺の過去帳調べたらよいのやら)


「G」と言う所に家を建て間も無く寅吉(大室寅之祐 1850年1月10日)が生まれた。だから地名を自分の家の苗字にしたみたい。「G」の名前の由来は「村の中心」と言う意味。西円寺から麻郷小(明治5年創立)に行く途中ゼンリンの住宅地図に小さな文字で「集会所」と書かれた所があってそこが昔の麻郷村役場だった。


明治20年に作蔵の死と共に家業は百姓一筋になった。(作蔵の位牌は明治20年柳原愛子が作蔵の葬式の時、東京に持って帰った)葬儀は西円寺。だから、作蔵の位牌も無いし、お寺の過去帳にも作蔵の記載も無い。明治20年柳原愛子が田布施に来た(「K」先生)目的は作蔵の葬式の為に西円寺に来る為。帰り女官の一人が大室天皇の秘密を漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した。


京都に帰り立ち寄り(興正寺)、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。興正寺の過去帳によるとスヘの法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」。最高の法諡らしいのだ。(「K」先生調べ)


僕の高祖父XX X平が馬鹿でその後、友達の連帯保証人になった。友達が夜逃げして借金踏み倒したから一晩で「G」家の家、屋敷財産を分捕られた。その後、僕の曽祖父が優秀で麻郷村村長迄上り詰め、取られた土地、家資産(山林等)を自力で取り返した。


曽祖父は多分黒手組だったのかも知れないが、ゼンリンの住宅地図見ると田圃(たんぼ)の貯水池が沢山残っているがこれは曽祖父の代に曽祖父により作られた。その他曽祖父が作った道路も有り、石碑が残っている。



◆大室庄吉の子供たち


長男 儀作 (明治19年11月23日生)
長女 モト (明治 4年 1月 8日生)
次女 タカ (明治 8年11月24日生)
三女 ツネ (明治11年11月 1日生)
四女 ヨネ (明治14年10月24日生)
五女 ツユ (明治17年 6月28日生)
次男 音吉 (明治22年 9月26日生)


俺の爺ちゃんが天皇の医療団の一人だったんだが、当時の天皇(つまり明治天皇ね)から色々と品を頂戴したんだけど、その中に「長 ●●●家系譜」(●は塗り潰されて分からない)と言うのが有るんだ。透けて見ると「大」の文字が最初にくるので、こちらで話題の大室家の系譜かも知れない。どうせ嘘だと言われるでしょうけど・・・。(ワラ)



◆長州大室家系譜?


Q. 大室と「K」先生の弱点は大室寅之祐の父、大室弥兵衛から南朝光良親王迄の大室家の家系図が欠落してる点で、もし宜しければ詳しく教えて下さい。


A. 私には価値がよく分からない。本物かどうかも分からない。そもそも、天皇から拝領と言う事すら眉唾もの。ただ、天皇からの拝領品の中に一緒に収まっていただけなんです。他にも山県有朋やら伊藤博文やらの手紙も幾つか有りましたけど、こちらは公共の機関に譲渡しています。


系譜は江戸時代初期詳しく言えば徳川家康の死去年(1616年)からみたいです。

その後、水戸系高松松平頼重と続いていきます。ただ、文政年間から幕末にかけては故意かどうか削除されています。一応、幕末の記録帳に、


「長 大室虎(ママ)之祐」
と書かれている様です。昔の字体だから、よく分からないです。こう言った史料は何処で見て貰えば良いの? (初代の頃は「大室」では無い違う苗字になってます。)


やはり、旧字体ですから何と書かれているのやら。ただ、南朝云々と言う話があるそうですが、初めの由来書?(「由緒書」と大文字で書かれています)には、



南朝後○○天皇ノ●●●(中略)忠臣北畠師親息女●●●(中略)ト光良親王ハ敵地に進ム。(以西ハ北朝ナリ)消息知レズ。系譜ハ元和弐年ノ始祖「麻郷(後ニ●●ト改メ)」ヨリトシ、後裔ノタメニコレヲ残ス。

(○○はここだけ旧字体なので分かりません。●は削除されています)
この事?ですか???(「K」先生の本より)



この時、96代後醍醐天皇が北畠師親の娘源親子に生ませた王子・征東将軍宗良親王の曽孫、光良親王も城内に居たが、師成親王と共に乗船して周防へ下向した。

船内には熊毛郡の住人で余田村(柳井市・・・・



系図はその後も続いていますが、うーんどうなんでしょう。書いてあると申せば書いてある様ですし、無いと申せば無い共。兎に角、読み辛いのです。

しかし、「長 大室虎之祐」 の隣には、「省(ママ)吉」(国賊ノ名ヲ改メ) とあります。こちらも横枠にごちゃごちゃと書いてありますが、読めません。


先程、父に聞きましたが、正確には天皇からの拝領物では無く、曾祖父が医師を辞した時、伊藤博文(?)から長年の功績に報いて色々な品々を頂戴したそうで、それは天皇の御意志でもあったそうです。

それと系図については、曾祖父がさる高官から命じられて作ったそうです。それが不要の長物となったので、返却されたと言う話です。その時に「処分する様に」と言われたそうですが、折角の記録で有るからと一緒に締まっておいたそうです。この事は先程聞いて初めて知りました。


私は日本史に疎い方でして、皆様より関心の度が無いのです。お話から歴史の裏の部分を証明する資料なのかも知れませんが、私には蚊帳の外の話しでして。叔父からの話でも、「昔は天朝様にお仕えしており、色々な物を下賜して下さった」 と言った程度の話しか聞いておりません。資料についても色々と考えてみますね。


それと横枠に朱字で、


「故アッテ抹・・・(中略)●●ニ京●●●●●家ノ●子トナ・・・」
とやたら長く文章が書いてあります。(●は読めないだけで削除文字ではありません)
追加(年号)ニ京闕生名倭人家ノ養子トナル>>作蔵の妻が長男虎吉、次男省吉、幼い二人の子を引き連れて、作蔵と離婚。後、作蔵の元妻が大室弥兵衛と再婚。つまり寅之祐は「G」家から大室家(京闕生名倭人家)の養子となった訳。書きたいのは山々なんですが、私には読めません。



系譜の最後に、


「明治三十二年六月 改  ●●●●●」(●は自分の曾祖父の名前なので削除します)
と書いて有るのは読めますが、どうやら表紙など一部を改めらしく、内容の殆どは昔の字体です。素人の自分には読めません。大室と言う姓ですが、他にも記してあるのかも知れませんが、幕末の大室さん以外は分かりません。正直見てみないとわかりませんよ。滲んでいますので。ただ、「虎(ママ)之祐」と言うのは間違い無く書いてあります。

他にも朱字で書かれている箇所がありますが、そちらの方が詳細に書いてあります。後、この後も大室家系図は続いています。此処から派生して色々な系譜となっているみたいです。一応、自分が受け継ぐ事になっていますが、まだ親父の物なので公開については相談してみますね。

案外、誰でも天皇になれるんだよね。ただし、5~6代くらいかかる。3代で総理、5代で天皇と言う訳。



ステップ1.


1代目
市議会議員から県会議員。国会議員(参議院議員)から衆議院議員(小選挙区)
当選1~2回位で死亡。息子に地盤を譲る。 (昔なら男爵から子爵になった所で死去)
(若しくは薩摩藩家老調所(1万石)に当たる。おゆらに当たる。作蔵さん、スヘさんに当たる。若しくは大室ヨネ、橋本卯太郎に当たる。田中角栄位か?)


ステップ2.


2代目
衆議院議員の地盤を父から譲り受け当選10回位迄か??
当選3回で政務次官から当選5回で大臣当選8回で大蔵大臣、当選10回で派閥の長、若しくは都知事か衆議院議長。あと一歩で総理大臣になれる所で死去。息子に地盤を譲る
(昔なら子爵→伯爵→侯爵(公爵にはなれず) 徳川御三家位? 国持ち大名位か? 島津久光、若しくは大室庄吉、若しくは橋本龍伍に当たる。 田中真紀子位か安倍晋太郎位か? 石原都知事もこの辺りか?)


ステップ3.


3代目
父の地盤を引き継いで総理大臣迄上り詰める。(昔なら侯爵から公爵へ)
ここ迄3代100年かかる。
(権力が最大ピーク頂点迄行き着く。徳川将軍位か? 島津忠義、大室儀作、橋本龍太郎に当たる。田中雄一郎位か? 安倍晋三位?)


ステップ4.


4代目
朝香宮・東久邇宮・竹田宮・北白川宮等の皇室よりかなり遠い旧宮11家に相当。
(島津忠義の息子朝香宮、大室近祐に当たる。橋本龍太郎の息子位か?)


ステップ5.


5代目
三笠宮・高松宮・秩父宮等の直宮家に相当。
(朝香宮と九条節子の間の三笠宮タカヒトに相当。大室近祐の息子、徳川恒孝に相当。橋龍の孫位)


ステップ6.


6代目
(上がり)天皇
(此処迄150~160年位かかる。但し、4代~6代迄は権力が弱まり象徴化する。明仁天皇、徳川恒孝の息子広飲み屋、橋龍の曾孫辺りか?)


1400年、南朝系の皇子光良親王が大内弘茂に連れられて麻郷にきた時、周坊はこんな状況だった。

大内義弘(弘茂の兄)は幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外無くなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様で有る。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視出来ないと思われる。(福尾猛市郎『大内義隆』日本歴史学会編)


尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏
水戸藩の「玉」は有栖川宮
長州藩の「玉」は山階宮
島津藩の「玉」は中川宮なれど、朝廷、幕府、さらに明治政府も翻弄した「悪玉」
紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏
徳川幕府の「玉」が日光宮こと東武皇帝




高松八幡宮で王政復古の大号令が発せられたと言う鹿島説は本当の事。(昔、爺さんに聞いた事有る)それと何処だか忘れたが島津久光の軍が進駐した場所も有った。(解決黒頭巾に聞いて)西郷隆盛や三条も一時宿泊し、滞在した跡が麻郷には今も残っている。


>>法号の記載のあったお寺は西円寺なの? それとも違う寺かなあ?(「K」先生に質問)


現在は京都興正寺(浄土真宗興正派)に有り。


本名「興正寺基子」(こうしょうじ-すえこ)。始めは末子、季子、後に基子。興正寺(浄土真宗興正寺派)門主一族の出身。位牌は不明で無ければ「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」等と最高級の名前は贈られ無い筈。位牌は明治20年に東京に持ち去られ戦災で消失? 但し興正寺には過去帳は残っており、スヘ様の存在と法諡が判明。


大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介(虎助・寅介)と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として下関宰相に投獄されていた事が判明。(『萩東照宮文書』)




 調査結果




寅之祐の弟庄吉の長男儀作 次男音吉 儀作の長男近祐 次男勝 勝の長男憲之近祐の長男照明 次男弘樹 弘樹の長男貴雄


近祐の息子徳川(大室)つねなりの長男広飲み屋、庄吉の娘ヨネ、ヨネと橋本卯太郎の間の子橋本龍伍、ヨネの胤違いの息子和田恵三郎、和田恵三郎の娘迪子。迪子と徳川恒孝の間の広飲み屋。


以上 田布施町戸籍課 




 調査結果




(天皇家)光格天皇の弟 仁孝天皇(真実は光格天皇と仁孝天皇は兄弟ですら無い)


仁孝の息子孝明天皇 慶子が流産した明治天皇1 豆腐屋の息子替え玉明治天皇2 大室寅之祐の明治天皇3 寅之祐の息子大正天皇 、昭和天皇 秩父宮(二人とも母は貞明皇后) 高松宮(母、松下トヨノ)



(以下、つづきは転載元をお読みください。)



(転載おわり)



転載元:

Report of the Underground History
http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4-1.html
20-1.大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について
(2002.5.7)



== FIN ==













スポンサーサイト

Comment

Add your comment