「古墳」は「墓」である、とはまったくの思いこみだ。邪馬台国と卑弥呼が消滅して、近畿地方に大和王朝が成立した、とはこれもまったくの刷り込みだ。神武が121年に倭国豊ノ国に、邪馬台(やまと)王朝を建て、200年に卑弥呼が女王として即位した。 

近年、日本の歴史では弥生時代の次に古墳時代とし飛鳥時代ないし大和時代のまえにこれをはさむ。飛鳥、大和王朝の建国のまえの、豪族の連合の国の時代を古墳時代とし、この代表のイメージが卑弥呼であり、邪馬台国となっている。

卑弥呼の邪馬台国は大和王朝が成立するまえの豪族の連合の国の時代を意味し、この邪馬台国と卑弥呼が消滅して、近畿地方に大和王朝が成立した、と日本人の圧倒的多数が、そのように認識し、生まれながらの所与の史実としてある、と思い込んできた。

万里の長城やピラミッドのように民に奴隷のように苦役を科す、支配のシステムとしてあるのが、日本の古墳時代の、豪族や王族の権勢を示す「古墳」というもの。

しかし、一般に思われているようには、「古墳」は「墓」ではなかった。


「古墳」は「墓」である、とはまったくの思いこみだ。

「古墳」は豪族や王族の権勢を示す民に苦役を科す「墓」などではなく、豪族や王族が民に「生き残り」「繁栄」をもたらす「水田の開墾灌漑土木工事システム」だった。


同様に、

邪馬台国と卑弥呼が消滅して、近畿地方に大和王朝が成立した、と日本人の圧倒的多数が、そのように認識し、生まれながらの所与の史実としてある、と思い込んできた、のもまったくの、刷り込みである。


まず、九州倭国豊ノ国に、邪馬台(やまと)王朝が成立し、そののち、卑弥呼は、この邪馬台(やまと)王朝の王として存在した。

神武が121年に倭国豊ノ国に、邪馬台(やまと)王朝を建て、200年に卑弥呼が女王として即位した。


倭国豊ノ国には、スサノオ、ニギハヤヒ、など日本の王が都(住居)を構えそれぞれ王国を造り、神武が邪馬台(やまと)王朝を創始し、

500年後には筑紫本朝で冠位十二階を制定し、遣隋使を出し、仏教を信仰し半跏思惟の座禅を組んだ多利思北孤 = 日出ずる処の天子を生み、

ニギハヤヒの時代には物部氏が、多利思北孤の時代には、蘇我氏が、倭国豊ノ国筑紫国に朝廷側に実力者として実在していた。

天武、天智、斉明天皇まで倭国豊ノ国、筑紫にて邪馬台(やまと)王朝は続いた。


それまで、近畿奈良には大和王朝はなかった。

近畿奈良の大和王朝は701年に始まる。


以後およそ百年かけて、倭国豊ノ国筑紫の邪馬台(やまと)王朝の事蹟と地名を、紀元前後まで遡るそれらを、近畿奈良に移植し、豊ノ国筑紫の邪馬台(やまと)国にあった寺社を、創建が500年代600年代に遡るそれらを、近畿奈良に移築した。




古墳時代という嘘 〜実は墓ではなかった!?〜【CGS 日本の歴史 2-3】
15:34
ChGrandStrategy

https://youtu.be/_r2M16hAf4s


2015/09/04 に公開

古墳の建設の目的はお墓で、力の強い豪族が民を無理に使役して作ったというイメージがあります。
しかし、古墳が作られた本当の目的は違い、それはとても日本的な経緯を持っていました。
(本シリーズの内容はあくまでねずさんの提唱する一説です。必ずしも正しいとは限りません。しかし教科書や多数説だけを見るのではなく、色々な証拠から多角的な考察をしてみることが重要です。) (投稿の記事を引用)


== FIN ==


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