魔とは、何か。精神分析学、深層心理学における、また仏法をそうした心理学で解釈してしまった、「無意識」は、「魔 = 権力の内面化」である。 

kenchicjunrei
2011.12.31-02.22


悪魔性は、なぜ必然なのか

世界の支配勢力が、なぜ今も、民主主義をもたらしながらも、民主主義を支配のための道具とし、全体として意図しているのは、ほんとうに行われているのは、世界の人間の家畜化である、不必要な人間を殺すことである、という世界の指導層が持つ悪魔性は、なぜ必然なのか。


釈尊が説いた仏教では、世界の指導層の悪魔性の問題も、一人の人間の意識存在の問題に還元される。


釈尊が、「人間が仏性へ覚醒しようとするときには、第六天の魔王が競いおこる」、と最重要の原理を説いていらい、この原理はいまも変わらない。

それは、釈尊から二千数百年へても、仏教徒であろうとなかろうと、
いまも人間が、「覚醒することがない、曇りまくった意識」をもつ存在として、
この世にうまれてくるから、という不変の条件にあるからである。



そして、いまも人間が、覚醒することがない、曇りまくった意識をもつ存在として、この世にうまれてくる、という原理が「なんら変化がなく、続いている」ということは、ほとんどの人間がいまも、「意識の存在法則を変革する」ほどの覚醒をする必要がない、それほどの曇りまくった意識ではない存在である、と自分のことを信じている、ということに人間は常に向かう、ということを強烈に意味している。


このへんの人間の不変の「覚醒することがない」状態について、哲学者は、小学生の算数のように平易な言葉で説明している。



このふつうにいう、意識、いまここに「在る」ことを、「自己」了解している意識。この意識が「覚醒することがない」ものとして在るのは、なぜか?
反省意識を超えて自然的に、意識が、そもそも「自己欺瞞として在る」からである。



自己欺瞞について


『 自己欺瞞は、我々の日常にあっては、疑念のないそれ自身で満たされた、「良い信仰」、つまり「誠実」ないし「真っ正直」へと向かい易い。

しかし、誠実ないし真っ正直は、自己欺瞞の掌で挫折させられてしまう信仰であり、いっぽう自己欺瞞は自己欺瞞の自分の掌で挫折して、誠実ないし真っ正直へと向かう。自己欺瞞は自らが持続するためには「自己欺瞞は自己欺瞞であることを否定し、結局、真っ正直を内部に忍び込ませる」からである。

自己欺瞞は、良い信仰、つまり誠実ないし真っ正直へと向かうが、そもそも、そうなるのは、自己欺瞞は信仰である、からである。

自己欺瞞は、対象的認識として与えられる問題ではなく、対象的な直観としてはあたえられることはない、反省以前的、「信じる」という意識なのである。自己欺瞞とは、信じる(という存在形式をした)意識である。』
(サルトル。サルトル全集「存在と無」 松浪 信三郎 翻訳 人文書院発行)



このわれわれがふつうに自然に把握している、自分がいまここにある、という明晰な意識は、信じる(というかたちをした) 自己欺瞞(の) 意識である、というのである。

この、自己欺瞞(の) 意識は、意識それ自体であり、それゆえ、それは対象化できない。

どんなに反省的意識をめぐらせても、自己欺瞞(の)意識をとらえることはできない。それは、人間が意識の外部に立つことができないから、としても語られる。


より正確には、意識は、『意識は自己ではない。自己欺瞞としての信じるというかたちをした、自己と自己ではないものを矛盾のうちに同時に抱え込んだ、
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しかも信じるにおいてこの矛盾を隠蔽してしまい、自己は自己であると思い込こんでしまう、自己(の)意識である』(同上)、と記述される。



こうした、人間の条件、構造、人間の宿命、となっている、「自己と自己ではないものを矛盾のうちに同時に抱え込んだ」、しかも「信じるにおいて、この自己欺瞞を忘れさり黙殺してしまう」、という人間のありかたが、

実のところ、本来の宗教の存在理由をもたらすのであり、そしてまた、そこにこそ、あの、人間の悪魔性の存在理由がある。



眠りにおちいるようにして自己欺瞞におちいる


サルトル (同上)『 ここで問題にしているのは、反省された意志的な決意や信仰ではない。われわれは、眠りにおちいるようにして自己欺瞞におちいるのであり、夢みるようにして自己欺瞞的である。

このありかたが実現されると、そこから抜け出すことは、昏睡から目覚めることが困難なように、困難である。それは自己欺瞞が、夢またはうつつと同様に、世界のなかのひとつの存在形態だからである。』



すると、どうなってしまうのか 超越と魔


この存在形態から覚醒しようとするとき、覚醒のその実現不可能性=無明にたいして、これに応じる、最大の魔=第六天の魔王、が呼び醒まされる。


覚醒のその実現不可能性=無明は、人間には耐えがたい越境、魔境を意味するからである。

(天台は、内観するとき、意識は、ある地点で、魔境になるとした。)

それは、生でありながら死(仮死)であり、生を越境する破壊、を意味する。

それは、自己でありながら自己を「超越」する領域である。それは自己を超越する領域でありながら、自己を超えることができない。

自己に穿たれた自然的[壁]=「不可能」が、真に立ち現れる領域である。



この人間にとっては、生でありながらも、死(仮死)=否定である領域に、神を偽装した「自己肯定の絶対化」としての魔=権力が、破壊者でありながら、偽装された「善」として、棲息する。



権力を存在させる根拠を与えつづける、「矛盾を無視する肯定」


この「目覚めることがない」存在形態から、自己の矛盾を黙殺する方向に向かう通常の人間にとどまるとき、その場合は、魔があらためて呼び醒まされることはない。それは別の名で、すでにそこに存在するからである。


つまり、矛盾なき「肯定」、自己欺瞞なき「信じる」、「肯定する」、これこそが、破壊者でありながら別の名を持つ権力を、絶対的自己肯定として存在させつづける「根拠」となっている。



――――――― と、ひとまず、足早にいくつか命題をまず掲げてみた。


実例を見る

意識は空無な存在として、独立実体として存在しているわけではない。意識はつねに「なにものか」(についての)意識としてある。

反省以前的に意識は「状況」の只中に投げ出されている。


「信じるにおいて、この矛盾を隠蔽し黙殺してしまう」、という人間のありかたは、反省的認識から逃れでる矛盾をはらんだ「圧倒的な事実A群」(自己肯定する現前する事実)を前にして、自分の身近な事実Bと事実Aを結びつけて、Bが原因でAが起きた、と信じるC、というような場合がつねに起きている。



その一例。

「カンボジア戦乱のとき、ある日本人が国外脱出に失敗して、居場所が突然、戦場の前線になり、攻撃にさらされた。地面のくぼみに身を伏せていたが、(日本の仏教の法華経の信者であった彼は)題目をあげているとB、鉄砲の弾は不思議とよけていったA’。そうするうちに、米軍が来てA’’、奇跡的に助けられたA’’’。 法華経ゆえに難をうけること、題目のちからをまのあたりにして、仏法は正しいと確信Cした。」


矛盾: 米軍を善神化している。そして見事に世界支配勢力を見ようとしない。自分は助けられたが、米軍にその時殺されたひとは、どうなのか。自分に身近なことが、「確信」の、「信じる」の、「肯定」の基準となっている。

米国が戦場をシナイ半島全体に拡大させたこと、そもそも、他国に侵略し殺戮していることを、死角として、視界に入れていない。ベトナム戦争は、北ベトナムが米艦船を攻撃した、と米国がウソを言って、計画的に仕組んで介入した戦争であることに、この「信じる」において、後からの情報を得られても、気付くことがなかった。

たとえ情報として後で気付いても、得心する、納得する、ということができないのだ。


彼は突然の戦場のなかに放り込まれて、弾は不思議とよけていったが、彼は覚醒していても、同時に「目覚める」ことはできなかった。

彼はそこで立ち現れてくるさまざまな「疑問」に覚醒するよりも、むしろ「疑問」を忘れさり、眼前の立ち現れてくる現実の断片を繋ぎあわせ辻褄をあわせて、決着した。



眠りにおちいるようにして自己欺瞞におちいる。

ある「不透過な一点」をまえにして、「疑問」の相貌にあたまを打たれ、あっちむいてホイ、の状態で、かれは前後不覚に眠りに落ち込んだのだ。


彼をふいに訪れ、前後不覚に、そこから意識をそらした、「疑問」とは?

彼は、ほんとうはどこにいたのだ? 

彼は、どこから来てどこにいく、「存在」なのか? という得たいのしれない、おし、で啞であるような、疑問を付されて怪物化した存在の相貌。



ほとんどの信仰者は、必然的に、権力に親密になる。


この「信じる」は、「南無妙法蓮華経」という題目をあげていると=奇跡的に助けられた=仏法は正しい、として三段飛びの思考をしている。そのあいだの矛盾を無視してしまう。人間は、あまりに身近な出来事は、三段飛びの思考しかできない、とも言える。

「信じるにおいて、この矛盾を隠蔽し黙殺してしまう」、反省以前的存在である真っ正直な信念は、あまりにも、かんたんに増殖する。A=Aだから。肯定が肯定を呼び連鎖する。


この肯定の連鎖こそが、肯定の絶対化としてのゴール=権力を、存在させ続ける根拠となって、権力を永久に必然とさせている。


創価のおばちゃんとかも、仏法の信仰者なのに、ほとんどがこの形の「信じる」になっている。

創価にかぎらず、ほとんどの人間が、反省以前的に真っ正直な信じるという意識で生きているわけで、日常的にひとは、反省以前的に自己欺瞞としての信仰を意識されないままやっている、とともに意識されないまま、反省以前的に、権力に親密となってゆく、ということになる。



仏教をインスタントなA=Aの三段とび原因結果の心理学的連想ゲームとした、大衆のための密教というたぐいのものも、無くならない。

釈迦の仏説に言語にならない、呪文は存在しえない。にもかかわらず、釈迦の説いた経から、勝手に抜き出した言葉に、呪文を加えて経とする、のがある。

にせ経を唱えると、なにかが起こる、らしい。これは宗教のように重たい厳しいものではなく、自己改革トレーニングです。短い経のような呪文をとなえるだけでいいのです。すると、いい結果が出ます。安全で、悪魔がでるとかそんな重たい話はありません。幸運が訪れないひと、不運ばかりが続くひとは、これで良いことをひきよせてください。なとなど、とするらしい。

仏教の基本の骨格を捨て去って、ひとびとの「信じる」に衣装をあわせた、なんちゃって信心。第六天の魔王の、緊迫感など、ありようがない。権力からいじめられるのは、いじめられる側に問題がある、とかにしてしまうぞ、といったレベル。

はい、どこまでも権力はアンタッチャブルとし、問わないことにします、という、信じるは信じるの権力化にはまった、わかりやすいサンプル。


仏説に呪文は存在しえない、ということさえ理解していない、安易な三段飛びの思考がもたらした「功徳」を、「信じる」なひとたち。




さて、

「自己と自己ではないものを矛盾のうちに同時に抱え込んだ」、という人間の構造をサルトルは、別の言い方でこう言っている。


「即自」と、「対自」=意識の存在


「自己と自己ではないものを矛盾のうちに同時に抱え込んだ」、という人間の構造を、それ自身で存在する「即自」、 と、それ自身であらぬものにつきまとわれる「対自」=意識の存在、として見てみると、次のように記述される。


テーブルがテーブルである、テーブルはそれ自身に依って存在する、というように見えるような仕方で、つまり、自己が自己にぴったりと重なった、そういう即自の在り方として、意識は、存在するわけではない。


「渇き」は「意識」であるが、正確には、渇きは渇き(についての)自己(の)意識である。
「信念」は「意識」であるが、正確には、信念は信念(についての)自己(の)意識である。
意識の内部において、渇きは渇きである、とも、信念は信念としてある、とも、意識は意識である、とも、いうことはできない。

それ自身に依って実体的に「即自」として存在しているわけではなく、それ自身であるためにはそれ自身であらぬものを同時に抱え込んだ、という意識の在り方を、「対自」あるいは「対自」存在という。



そして、渇きは渇き(についての)自己(の)意識であるかぎり、渇きは「自己の存在としての根拠」にたえずつきまとわれる。つまり、価値(意味)の存在につきまとわれる、のである。



すると、 渇きは、十全に充満した理想を欠いた渇き(についての)意識であり、あるいは、渇きは、欠如を蒙る自己の全体性にたえずつきまとわれた、自己を超出する自己の全体性の記憶につきまとわれた渇き(についての)自己(の)意識である、といわれなければならない。


このような、対自につきまとう価値の存在とは、自己の存在の完全性、全体性、起源、根拠、源泉といった問題を人間にあてがうもの、つまり「私とは何か」という疑問符を付された問題を、人間の個々の事象に刻印しながら、たえず人間につきまとう存在である。



「渇き」というたったこれだけの単一の事象にも、価値の存在、起源の問題は、刻印されている。


生理的な渇きは水を飲みそれは解消されることで形をあたえられるが、その瞬間にその全体を示すような存在は渇きが満たされた分だけ移動する。手を伸ばせばその分だけ遠ざかり、超出する。渇きは十全に満たされることはない。



一般化すると、

(私は、)思考する、語る、行為する、には、「私とは何か」という疑問符がたえずつきまとっている、のである。

ドアを開けようとドアノブをまわしたのは何ものか。誰が語るのか。言語を保持するものは何ものか。何ものへ向けて話すのか。何も話さないにもかかわらず、けっして黙ることのない、あの、言語とは何なのか。



ここで、
「私が」、考え、話し、行為する、にきまっているではないか。

と即答するひとは、自然的な眠りに陥るやいなや自己欺瞞から目を逸らし、真っ正直な信念、私は私であるという同語反復の自同律へ、たえず向かうひとである。

ひびわれしそうにない自己の実体を信じて、仮想された即自存在へと、向かうひと、ということになる。

「意識は自己ではない。自己欺瞞としての信じるというかたちをした、自己と自己ではないものを矛盾のうちに同時に抱え込んだ、
しかも信じるにおいてこの矛盾を隠蔽してしまい、自己は自己であると思い込こんでしまう、自己(の)意識である」
という人間の現存の構造をまえにして、


『 自己欺瞞は、真実を知りながらもその真実を自己にたいして隠している 』 (サルトル。同上)


つまり、自己欺瞞は自己欺瞞の構造を持続させるためには自己欺瞞を否定し、自己は自己である、という自作自演の「肯定」を演じ、真っ正直な信念へと向かう。


自己と自己にまつわる眼前に展開する圧倒的な事実の現前にたいして、ここで、人間はふたつの異なった態度を採りえるはずが、実際はほとんど人間はこうして、テーブルがテーブルであるように、ものが即自的に存在するように、私は私であると、「肯定」するところから、その生存をスタートさせる。



「信じるにおいて、この矛盾を隠蔽し黙殺してしまう」という態度をとる、真っ正直な信念は、在るものは在る、という、実体の同語反復A=Aの自同律によって、眼前の圧倒的な自己にまつわる現実を、どんなにそこに矛盾や齟齬(そご)があろうとも、その現実を肯定し、矛盾齟齬を無視したまま、肯定は肯定を呼び、自同律で連鎖する実体論的よこすべりの世界が造られる。


在るものは在る、というこの肯定の連鎖こそが、肯定の絶対化としてのゴール=権力を、存在させ続ける根拠となって、権力を永久に必然とさせている。


眼前の圧倒的な自己にまつわる現実をまえにして、そこで<<なぜ>>という問いかけがなされても、その問いかけが起源、原因、根拠について、であったとしても、そこでの問いかたは、肯定を土台にした地点に密着したままであり、

―――――なぜ、いまここに、私は存在するのか、という、自己と現実についての起源、全体性を示すものをあえて問い掛ける根源的な問いとは、これとは、まったく交差することのない、別の位相のものとなっている。



真っ正直な信念による中途半端な問いかけが、産み出してしまうであろう「凡庸な確信」「錯誤の信仰」を、人生全般において粗造する、そういうひとについて、ふさわしい名詞をつけよう。


私は私であるという同語反復の自同律をもとに、ひびわれしそうにない自己の実体を信じて、仮想された即自存在へと、向かうひとを、われわれはここで、(年齢や性別にかかわりなく) 「即自オバサン」 と言う。



== FIN ==



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